ザ・ゴールデンカップス
「とくダネ!」で小倉さんは、ゴールデンカップスのメンバーは全員(ハーフではなくて)日本人だったと言ったけど、こうちゃん(エディ藩)は中国人だし、マモル(マモル・マヌー)もマー坊(ルイズルイス加部)もブッチ(ケネス伊東)もハーフのように見えたけど・・・まぁどうでもいいことだけど。
中学生の時、テレビで「いとしのジザベル」を歌う時坊を見て、いっぺんでファンになり、そして事務所に電話をしてカップスのスケジュールを聞き、当時新宿の歌舞伎町にあったジャズ喫茶「ラセーヌ」に姉といった。
メンバーはステージの間の休み時間は客席にいたので、サインをもらったり話をしたりしたけど、あがってしまってあんまり会話は出来なかった。
サインをもらう時「住所と電話番号も教えて」と言ったら全員気軽に書いてくれたけど今から思うとすごく図々しいお願いだったな・・・。
それからは「新宿アシベ」「銀座アシベ」「池袋ドラム」などのジャズ喫茶や、テレビの公開録画会場や遊園地での新曲発表会やファンの集いなど、いろんな場所にいった。
もちろん、日劇のウエスタンカーニバルも。
話は横にそれるけど、中学生だった私は少しでも大人っぽく見せたいと、この時初めてストッキングをはいた。当時はまだパンティストッキングがなくて、ガーターベルトで留めていた。なんだかすごく大昔の話のような気がするが(^^;。
お小遣いも少なかったし、中高生が買えるようなお洒落な洋服の店などほとんどなくて着ていく洋服には苦労をしたな。数少ない洋服の組み合わせを変えたり、ステージを見に行った日の洋服を書いておいて、同じ洋服が重ならないようにしたり、メンバーは私のことなど覚えてはいないのに、なるべくいつも違う印象を与えるようにしていた。
横浜方面から来るファンの女の子たちが、みんなお洒落でセンスが良く思えて・・・それに
負けたくなかったから。
家庭科の授業でワンピースの作り方を習ったので、それを応用して、でもほとんど原型のパターンのワンピースを安い生地を買ってきて何枚も作ったり、いま思うと我ながら頑張ったなぁ・・・といじらしくなってくる。
その後日本も豊かになり、私も働いてお洒落な洋服を買えるようになったけど、この時のような洋服に対する情熱は二度となかった。
ゴールデンカップスは、当時のアイドルGSと一線を画す本格的な演奏をしていたと言われているけど、私にとってはアイドルだった。外国の曲やR&Bもよく演奏していたけど、ちゃんと「いとしのジザベル」や「銀色のグラス」「長い髪の少女」などのヒット曲も歌ってくれたし。
でも「長い髪の少女」で人気が出はじめた辺りから、私の気持ちも段々とカップスから離れてきた。偉くなり過ぎたようで親しみが持てなくなってしまったから。
そのうちGSのブームは去り、ゴールデンカップスも解散してしまった。
レスリーのファンになってから、レスリーがアイドル時代のテレビ番組を見たりしたけど、やっぱり遊園地やどこかの屋上や公開録画の会場の映像があって、そんな時カップスに夢中になって追いかけていた頃を思い出し、日本も香港も同じなんだなと思った。
ゴールデンカップスと時坊が、ファンをやめてからも私にとって特別であるように、アイドル時代のレスリーが好きで、いまのレスリーからは離れてしまった香港のファンにとっても、レスリーはいつまでも特別な存在であったのかな。
中学生の時、テレビで「いとしのジザベル」を歌う時坊を見て、いっぺんでファンになり、そして事務所に電話をしてカップスのスケジュールを聞き、当時新宿の歌舞伎町にあったジャズ喫茶「ラセーヌ」に姉といった。
メンバーはステージの間の休み時間は客席にいたので、サインをもらったり話をしたりしたけど、あがってしまってあんまり会話は出来なかった。
サインをもらう時「住所と電話番号も教えて」と言ったら全員気軽に書いてくれたけど今から思うとすごく図々しいお願いだったな・・・。
それからは「新宿アシベ」「銀座アシベ」「池袋ドラム」などのジャズ喫茶や、テレビの公開録画会場や遊園地での新曲発表会やファンの集いなど、いろんな場所にいった。
もちろん、日劇のウエスタンカーニバルも。
話は横にそれるけど、中学生だった私は少しでも大人っぽく見せたいと、この時初めてストッキングをはいた。当時はまだパンティストッキングがなくて、ガーターベルトで留めていた。なんだかすごく大昔の話のような気がするが(^^;。
お小遣いも少なかったし、中高生が買えるようなお洒落な洋服の店などほとんどなくて着ていく洋服には苦労をしたな。数少ない洋服の組み合わせを変えたり、ステージを見に行った日の洋服を書いておいて、同じ洋服が重ならないようにしたり、メンバーは私のことなど覚えてはいないのに、なるべくいつも違う印象を与えるようにしていた。
横浜方面から来るファンの女の子たちが、みんなお洒落でセンスが良く思えて・・・それに
負けたくなかったから。
家庭科の授業でワンピースの作り方を習ったので、それを応用して、でもほとんど原型のパターンのワンピースを安い生地を買ってきて何枚も作ったり、いま思うと我ながら頑張ったなぁ・・・といじらしくなってくる。
その後日本も豊かになり、私も働いてお洒落な洋服を買えるようになったけど、この時のような洋服に対する情熱は二度となかった。
ゴールデンカップスは、当時のアイドルGSと一線を画す本格的な演奏をしていたと言われているけど、私にとってはアイドルだった。外国の曲やR&Bもよく演奏していたけど、ちゃんと「いとしのジザベル」や「銀色のグラス」「長い髪の少女」などのヒット曲も歌ってくれたし。
でも「長い髪の少女」で人気が出はじめた辺りから、私の気持ちも段々とカップスから離れてきた。偉くなり過ぎたようで親しみが持てなくなってしまったから。
そのうちGSのブームは去り、ゴールデンカップスも解散してしまった。
レスリーのファンになってから、レスリーがアイドル時代のテレビ番組を見たりしたけど、やっぱり遊園地やどこかの屋上や公開録画の会場の映像があって、そんな時カップスに夢中になって追いかけていた頃を思い出し、日本も香港も同じなんだなと思った。
ゴールデンカップスと時坊が、ファンをやめてからも私にとって特別であるように、アイドル時代のレスリーが好きで、いまのレスリーからは離れてしまった香港のファンにとっても、レスリーはいつまでも特別な存在であったのかな。
by kelly-o
| 2008-11-24 09:35
| その他
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